過ぎ去った校舎への追憶

いてふ会事務局顧問 坂本歌子

 私はただ今73歳。私がこの学校に入学したのは、昭和19年(1944年)、今から61年前の事である。学校の名前は、正式には市立高等女学校、通称、市立高女と呼ばれていた。校門は今と違ってお宮のすぐ横にあり、現在の校門の場所には、必由堂の記念碑があり、道路からは塀でさえぎられていた。校門の右手には、奉安殿(天皇の写真が収められている建物)があって、登下校の際には最敬礼をせねばならなかった。正面に、事務室や職員室、二階には講堂があり式典のときはここで講話を聞いた。他の校舎は正面棟をコの字型に囲んだ二階建ての木造校舎であった。この校舎は昭和6年に建てられ、当時の井島校長の自慢の校舎で、しっとりと落ち着いた風格のある校舎だった。その当時の市立は第一を凌ぐ勢いがあったと聞かされていた。中庭には色とりどりのポピンズを初め様々な花が咲き乱れ、私たちの心をいつも和ませてくれた。私たちが母校を思い出すとき必ず語られるのは、異口同音に中庭の美しい花々のことである。

1学年4クラス、5年制の学校であった。一クラスの人数は60人ほどであったから生徒数は全体で1200人ほどだったろうか。コの字の校舎から渡り廊下をくだっていくと二階建ての裁縫室、弓道場、体育館があった。この体育館はそのころ西日本一とか言われたもので、いつもピカピカに磨かれていた。掃除は皆よく働き、隣のクラスの廊下より綺麗にしようと懸命だった。今で言えば中高一貫の学校だったわけで、5年生のお姉さまが監督に来て、視線があっただけで怖かったからよく働いた。5年生の存在は、1年の私たちからみたら、完全な大人であった。私たちの数年前までは1年生の制服は上級生が作っていたそうである。 登下校は地域ごとにまとまって1年から5年まで二列に並んで、私語することもなく黙々と歩いたものだった。子飼橋まで市電が走っていたが、よほどの遠距離の人でない限り乗る事は許されなかった。

入学して1年間は戦時中といえども普通に授業が行われ、始めて学ぶ英語は興味津々で夢中で学んだものだった。入学して驚いたのは戦時中の学校なのに給食があったのである。作る人は上級生で、家庭科の時間に調理実習の一貫として低学年の分が用意され、当番が調理室に受け取りに行き、皆に分配し、後片付けを担当した。当時第二次大戦が勃発中で、日本に戦況は不利に傾きつつある中、食材をどう工面されたのか、初めの頃は二品、後に一品になったが、そのおかずは結構私たちの食欲を満たしてくれたのである。中でも人気は甘い金時豆であった。砂糖も普通の家庭は配給制でなかなか手に入らなかったのにどうして砂糖があったのかわからない。後に、体育館は軍部に管理されたから、砂糖を分けて貰えたのだと聞いたが真偽の程はわからない。一年も後半になると いなごのてんぷらとか芋の茎、人参の葉っぱ、蕗の葉っぱまででてきた。調理室は現在のいてふ会館の辺りで、後片付けに暇がかかり、5時限目の授業におくれまいと必死に働いたことや、廊下を走って叱られた事を思い出す。

平穏な学校生活も一年間だけで、2年になったら風雲急を告げるがごとく授業は一切行われなくなり、月月火水木金金で土日もなく私たちは麻生田や高平に農場を開墾し、から芋作りにあけくれることになった。上級生は健軍の軍需工場や被服廠に早代わりした体育館で軍需品の製造に動員されていった。そのころになると東京や大阪への空襲が始まり、7月1日は熊本市にも敵機が襲来し熊本市の半分は焦土と化した。さらに8月には広島・長崎への原爆投下。西の空に広がる原爆のきのこ雲を見て、一体あれは何だろうと不思議がりつつ家に帰った日を思い出す。その次の日の8月10日、私たちは自分たちの学校が消失するという経験をしたのだった。警戒警報で帰途に着いた私たちは家に帰り着くまもなくかなりの低空飛行で飛んできたB29の空爆を受けたのだった。防空壕に飛び込んでいなければ、わたしも危うく命を落とす所だった。敵機が去って家に入ってみれば、ガラスが足の踏み場も無いほど飛び散って、五発の機銃掃射の弾が飛び込んで来ていた。空を見れば、北の方角に黒煙があがっており、学校はどうなっただろうと心配したが夕方には、市立は全焼したというニュースが入ってきた。一週間ほどして登校が開始されたが、美しかった中庭も跡形も無く瓦礫の山で、片付けるのに数ヶ月ほどかかった。トイレだけは、胸から下だけに板を貼り付けた急ごしらえのものができた。校舎の無い生徒は青空の下で過ごすよりなかったのである。そのときの空虚感を忘れる事が出来ない。そして五日後に日本は連合国に敗北したのであった。

授業が再開されたのは、数ヵ月後、京町の現京陵中学の場所にあった熊本高等小学校の校舎を借りての再開であった。それも全生徒は入れないので二部授業であった。早出の日や遅出の日もあり、校舎とは名のみ、窓のガラスはほとんど無く、机も無い教室に、床に座っての授業であった。この冬は特に寒く、雪が部屋の中ほどまで吹き込むので、皆真ん中に固まって肩寄せ合っての授業であった。でも一年ほど全く授業を受けていなかったので、皆熱心に真剣に勉強した。戦災にあった友人の中には退学する人もあり、制服も無い人もいたが、皆助け合って過ごしていた。そこに二年間ほど通学したころ、学校再建の声が上がり、親たちもたしか一人千円ほどの寄付をという呼びかけが始まった。焼け残った旧邸でバザーを行い再建の資金にした。昭和22年、木造平屋のバラック校舎が完成し、木の香をかぎながらの授業が再開されたときの嬉しさは言葉に尽くせない。嬉しかったのは採釣園が昔のまま残っていたことであった。

私はここで二つの学制改革に遭遇することになった。占領軍つまりアメリカの教育制度が取り入れられ六三三制が施行されたことにより、女学校5年生のとき高等学校の2年生に編入されたことである。友人の大半は女学校5年生で卒業してしまい、高等学校三年生になったのは、一クラスのみであった。また私の二学年下には男子学生が入学して形だけの男女共学になったことである。私たちは二年間ほどまともな授業が受けられなかった為3年生になっても学業は遅れ、遅れを取り戻そうと必死だった。先生方も課外授業を献身的にして下さったお陰で、私たちのクラスから国立大学や県立大に30名近くの人が合格したのであった。女子にも大学進学の道が開かれた画期的な時期に、私は大学に進学できたのであった。

次に私が母校と繋がるのは、大学卒業後、18年間、市内の中学で教えていた私に、市立の恩師藤田典子先生から母校に戻っておいでと声をかけていただいた時からである。戻ってみると、まだ懐かしい先生方が10名ほど勤務しておられ、優しく迎えて頂いた。それから20年間、今度は社会科の教師として母校に勤める事になったのである。 新任式のとき、体育館に入って驚いた。戦後のバラックだてのままの体育館が残っていたのである。この体育館は建ってまもなく熊本大水害を体験したはずで、かなりの高さまで水が来たときいていたのでとうに壊されたと思っていたのである。しかし他の校舎は 昭和35年から42年までに鉄筋四階建ての立派な校舎と変貌していた。嬉しかったのは校舎の位置が、私が60年前に入学したときのままの形で上に背丈が伸びただけだったのである。中庭には草花ではなくベルサイユ庭園様式の植木の刈り込になっていて、小さな池と抽象的な石の彫刻があり、それなりの落ち着きをあたえていた。私が着任したのは昭和47年であるから再建築後12年たった比較的新しい校舎であった。女子高だったので、掃除のときは皆青いデニム地のエプロンをしてよく働き、その姿には清々しいものがあった。

生徒数は全校で1350名ほど。一クラス50数名が9クラス、3学年の女子高はどこかのんびりして、みんな素直で、中学の悪がきどもと暮らしていた私にはいささか物足りなさを感じたものだったが、その二年後、多くの論議の末、再び男女共学校となったのである。再びというのは、 戦後の学制改革で6年間ほど少数でも存在した男子生徒が入学しなくなり女子高に逆戻りしていたためである。男子トイレを作ったりして受け入れ対策に追われた。制服も男女ともかえることになった。男子数は1学年90名ほどで4クラスが共学、他は女子クラスとなった。昭和54年には現在の新体育館が完成、共学も本格的になった。

男子が入った事によって活気は生まれたが、校舎は年々汚くなっていった。廊下に溜まる抜け毛の多さ、ほこりなど時代の影響もあってか年を追って熱心に掃除をする人の数は減って行った。愛舎精神などはどこにいったか。学校が思い出となったときにやっと分かるものなのか。鉄筋の校舎といえども永遠のものではなく疲弊していくものであることを実感するようになった。鉄のサッシは黒く錆付き、重たく一部が外れかかってブラブラするのもあり、3・4階の踊り場には鳩が巣食い、おびただしい糞を垂れ流し汚さを倍増させていた。しかし生徒たちはくったくなく青春を謳歌して、ある時は歓声をあげ、あるときは怒り、笑いつつ三年の時を過ごし卒業し、また新しい生徒を迎え、送り、あっという間に20年の月日が過ぎ去っていった。

退職しても私と学校との縁はきれることがなかった。校舎のかた隅には卒業生の寄付を仰いで建立した「いてふ会館」があり、ある時期は同窓会会長として、又顧問として、いまだに校舎の横を通りながら月に三回ほどは学校にでかけているのである。辞めて程なくして採釣園が改築され、池の形は似ているものの水前寺公園のような美しい庭園に生まれ変わった。庭園を見学に見えるかたもあり、戦災をまぬかれた米田家の旧邸の古さと何故かマッチしてこれもまたよしかと思ったものだった。しかし学校を訪れるたびにどこか学校にピリッとした雰囲気がなくなり、これでいいのかと密に心を痛めていた。そのうち被服科を廃止して新しく服飾デザインコースが編成されると聞いて驚いた。 被服科は高校11回(昭和34年卒)に最初の卒業生をだしてから、公立初の被服専門コースとして高い評価を得てきているからだった。専門学校の生徒にも負けない力を持つともいわれ、被服科の生徒は実によく勉強していることを知っていたから、残念にも思われた。しかし商業主義のながれのなか既製服がまかり通り、縫製よりデザインの時代とも言われれば、それを芸術コースとして組み入れることもやむを得ない流れかなと納得した。教育は未来からみた現在でもなければならないから、いまでは大変なプラスであったと思われる。音楽・書道・絵画・デザインの面での活躍は、目を見張るものがある。しかし校舎は生徒たちの賑やかさとは裏腹に日々痛みが激しく、中庭もかっての庭園の姿は無く、なんとなくうら寂しい思いをしていたが、校舎の全改築の話が進み、校舎の解体が始まり、一部新校舎も完成など急激に一大変革期を迎える事になった。解体された校舎の跡にたち、戦中に焼け落ちた校舎の跡地に立ったことを思い感無量であった。新しく出来た校舎を見学して、至れり尽くせりの設備に歓声をあげたが、ここに学ぶ生徒さんらはその幸運を、どう感じているだろうか。新しいものは心地よく、美しいものは皆大好きである。しかし形あるものはいつか古びて行く。私の前から消えていった三つの校舎。校舎は消えてもそこで過ごした青春の日々の思い出は消える事は無い。この校舎で過ごす生徒さん方が、不断の努力によって校舎を愛して大事に使っていただき、二度と戻らぬ青春の日々を力一杯燃焼させ、終生忘れ得ぬ思い出を残していただきたいと願うものである。思い出のなかから校舎への追憶がけされることのないように。