寄稿

母校創立95周年 祝賀大同窓会

[寄稿] admin @2006/11/23 17:18

Produced by : 事務局顧問 坂本歌子

 その日は朝から雨であった。折角の大同窓会の日なのにと心配しながら会場のホテル日航へと急いだ。役員たちは3時集合。4時には各係りも持ち場について諸準備を整えて皆様の来場を待った。受付開始は5時であったが、4時にはロビーに人があふれ始め、仲良しの友人を待つ人、探す人、わぁーという喜びの歓声で賑やかであった。

 6時に開会セレモニー開始。コールいてふの方々40人が、黒のロングスカートに白のブラウス、首にはきらりと光るチョカーのいでたちで勢ぞろい。「忘れな草をあなたに」とめいめいの想い出添えて美しいハーモニーを聴かせてくださった。続いて二重唱。(高48回)の東 玄彦(東京芸大卒)・谷口美里(洗足学園大学声楽科卒)両氏がオペラ「ドン・ジョヴァンニ」より「手に手を取って」を熱唱された。タキシードと真っ赤なドレスがよく似合ってその若さと美しさに会場は思わずため息。

 いよいよ副会長大西和子氏の開会挨拶が始まり、まず物故者への黙祷。続いて正木紘子いてふ会会長、畠村宏名誉会長(現必由館高校長)の挨拶。今年は市長選直後の為か市長は出席されず、祝辞は代読となった。来賓は市議会より教育市民委員長東すみよ様、北口和皇様(高29回)のお二人で、卒業生の誼で北口氏より元気溢れる簡潔なご挨拶をいただいた。続いて来賓紹介では市立千原台高校長堤先生、市教育委員会指導主事上田先生、必由館PTA会長、旧職員、現職員の懐かしい恩師の先生方がテーブルごとに紹介され、歓声をあげながら、拍手でお迎えした。来賓には記念品(記念ボールペン・菓子一箱・お車代)が伊津野企画委員長より、来賓を代表して14代校長田中作先生に贈呈された。続いてアトラクションとして母校和太鼓部生徒による「隼(ハヤブサ)」の勇壮な演奏があり、雰囲気も最高にもりあがった。これはいてふ会より太鼓2丁の寄贈を披露する目的でもあった。

 13代校長藤門先生による乾杯の音頭で開宴となった。メニューは日航自慢のフランス料理でいずれも美味であったが、あとで聞いた話によると教え子の皆さんが挨拶に来るので食べたのは、ベトナム風春巻き1本だけだったと嘆かれた先生もおられた。

 暫しの会食の後に、アトラクションはいてふ会フラダンス部(レインボウ・フラ)の派手やかなコスチゥームに包まれての「アロハ・カウアイ」軽快なリズムに乗って平均年齢60?とも思えぬあでやかさであった。続いて高校5回米沢祥子氏(71歳)にインタビュー。元五輪選手や一般の愛好家が集うマスターズ水泳の70〜74歳クラスで、昨年一年間に長水路、短水路合わせて11種目で世界記録をつくられ、米国の水泳専門誌スイミングワールドから05年の女性の世界ベスト・マスターズ・スイーマーとして表彰されたということだった。次は高36回松岡淳氏、高43回許田重道氏による演奏と大道芸。違う学年の二人がここで始めて出会って二人の競演となった。

 松岡氏は東京で活躍中の作曲・作詞家、当日は水道管を使っての演奏、片や許田氏は沖縄では最早誰知らぬものは無いというほどのクラウン・コトラの大道芸人、二人の妙なる組み合わせに拍手喝采であった。さらに高校52回の鋤野貴也氏による「RAINBOW」の生ライブ。若々しい張りのある歌であった。続いて東京・関西・福岡支部長の紹介があり、飛び入りで当日最高年齢の福岡忠先生、隈部妙子先生・高女(15回)吉田カズ子氏・徳永久子氏の四方に、最も若い(本年卒業)二人の女性と、川上君(甲子園出場時キャプテン)が花束を贈呈した。隈部先生は全国体操協会から全国功労賞を受賞されたばかり。吉田カズ子氏は3B体操に60歳で出会われ、その指導者としてスポーツレクリェーション普及に努められ、「内閣官房長官表彰」を05年にお受けになられたそうである。皆さん何ともお若い80代であった。

 最後の盛り上がりは、「輝く母校95年の歩み」と題してビデオを見ながら、過ぎこし方を振り返り、さらには建築中の新校舎に思いを馳せ、母校の益々の発展を祈った。尚、ビデオは、現職員の永田満徳先生、必由館2回卒の坂本任氏のご協力により完成した。続いて、旧職員松尾嘉人先生のリードで先生方によるなつかしの「バラが咲いた」の見事なコーラス!そして市立のカラー臙脂色の法被を着たコールいてふの方々を中心に新旧校歌を全員で合唱。続いて参加男子60名が全員壇上に上がり、万歳三唱。椎葉副会長の閉会の言葉で、3時間に亘る大同窓会の幕をとじました。名司会は(高39回)しみず ひろ(関本敏博)氏でした。

別れの合言葉は

「5年後、100周年で会いましょう!!」

 今回の大同窓会の企画運営を引き受けて下さった、当番学年高12,13,14回の役員常設委員の方々、100名参加を目標に努力して下さった男子委員会の方々、蔭の最大の功労者、事務局の吉田正子氏の献身的な働きに心からの敬意と感謝を捧げます。

2006年11月19日

過ぎ去った校舎への追憶

[寄稿] admin @2006/04/08 16:59

いてふ会事務局顧問 坂本歌子

 私はただ今73歳。私がこの学校に入学したのは、昭和19年(1944年)、今から61年前の事である。学校の名前は、正式には市立高等女学校、通称、市立高女と呼ばれていた。校門は今と違ってお宮のすぐ横にあり、現在の校門の場所には、必由堂の記念碑があり、道路からは塀でさえぎられていた。校門の右手には、奉安殿(天皇の写真が収められている建物)があって、登下校の際には最敬礼をせねばならなかった。正面に、事務室や職員室、二階には講堂があり式典のときはここで講話を聞いた。他の校舎は正面棟をコの字型に囲んだ二階建ての木造校舎であった。この校舎は昭和6年に建てられ、当時の井島校長の自慢の校舎で、しっとりと落ち着いた風格のある校舎だった。その当時の市立は第一を凌ぐ勢いがあったと聞かされていた。中庭には色とりどりのポピンズを初め様々な花が咲き乱れ、私たちの心をいつも和ませてくれた。私たちが母校を思い出すとき必ず語られるのは、異口同音に中庭の美しい花々のことである。

1学年4クラス、5年制の学校であった。一クラスの人数は60人ほどであったから生徒数は全体で1200人ほどだったろうか。コの字の校舎から渡り廊下をくだっていくと二階建ての裁縫室、弓道場、体育館があった。この体育館はそのころ西日本一とか言われたもので、いつもピカピカに磨かれていた。掃除は皆よく働き、隣のクラスの廊下より綺麗にしようと懸命だった。今で言えば中高一貫の学校だったわけで、5年生のお姉さまが監督に来て、視線があっただけで怖かったからよく働いた。5年生の存在は、1年の私たちからみたら、完全な大人であった。私たちの数年前までは1年生の制服は上級生が作っていたそうである。 登下校は地域ごとにまとまって1年から5年まで二列に並んで、私語することもなく黙々と歩いたものだった。子飼橋まで市電が走っていたが、よほどの遠距離の人でない限り乗る事は許されなかった。

入学して1年間は戦時中といえども普通に授業が行われ、始めて学ぶ英語は興味津々で夢中で学んだものだった。入学して驚いたのは戦時中の学校なのに給食があったのである。作る人は上級生で、家庭科の時間に調理実習の一貫として低学年の分が用意され、当番が調理室に受け取りに行き、皆に分配し、後片付けを担当した。当時第二次大戦が勃発中で、日本に戦況は不利に傾きつつある中、食材をどう工面されたのか、初めの頃は二品、後に一品になったが、そのおかずは結構私たちの食欲を満たしてくれたのである。中でも人気は甘い金時豆であった。砂糖も普通の家庭は配給制でなかなか手に入らなかったのにどうして砂糖があったのかわからない。後に、体育館は軍部に管理されたから、砂糖を分けて貰えたのだと聞いたが真偽の程はわからない。一年も後半になると いなごのてんぷらとか芋の茎、人参の葉っぱ、蕗の葉っぱまででてきた。調理室は現在のいてふ会館の辺りで、後片付けに暇がかかり、5時限目の授業におくれまいと必死に働いたことや、廊下を走って叱られた事を思い出す。

平穏な学校生活も一年間だけで、2年になったら風雲急を告げるがごとく授業は一切行われなくなり、月月火水木金金で土日もなく私たちは麻生田や高平に農場を開墾し、から芋作りにあけくれることになった。上級生は健軍の軍需工場や被服廠に早代わりした体育館で軍需品の製造に動員されていった。そのころになると東京や大阪への空襲が始まり、7月1日は熊本市にも敵機が襲来し熊本市の半分は焦土と化した。さらに8月には広島・長崎への原爆投下。西の空に広がる原爆のきのこ雲を見て、一体あれは何だろうと不思議がりつつ家に帰った日を思い出す。その次の日の8月10日、私たちは自分たちの学校が消失するという経験をしたのだった。警戒警報で帰途に着いた私たちは家に帰り着くまもなくかなりの低空飛行で飛んできたB29の空爆を受けたのだった。防空壕に飛び込んでいなければ、わたしも危うく命を落とす所だった。敵機が去って家に入ってみれば、ガラスが足の踏み場も無いほど飛び散って、五発の機銃掃射の弾が飛び込んで来ていた。空を見れば、北の方角に黒煙があがっており、学校はどうなっただろうと心配したが夕方には、市立は全焼したというニュースが入ってきた。一週間ほどして登校が開始されたが、美しかった中庭も跡形も無く瓦礫の山で、片付けるのに数ヶ月ほどかかった。トイレだけは、胸から下だけに板を貼り付けた急ごしらえのものができた。校舎の無い生徒は青空の下で過ごすよりなかったのである。そのときの空虚感を忘れる事が出来ない。そして五日後に日本は連合国に敗北したのであった。

授業が再開されたのは、数ヵ月後、京町の現京陵中学の場所にあった熊本高等小学校の校舎を借りての再開であった。それも全生徒は入れないので二部授業であった。早出の日や遅出の日もあり、校舎とは名のみ、窓のガラスはほとんど無く、机も無い教室に、床に座っての授業であった。この冬は特に寒く、雪が部屋の中ほどまで吹き込むので、皆真ん中に固まって肩寄せ合っての授業であった。でも一年ほど全く授業を受けていなかったので、皆熱心に真剣に勉強した。戦災にあった友人の中には退学する人もあり、制服も無い人もいたが、皆助け合って過ごしていた。そこに二年間ほど通学したころ、学校再建の声が上がり、親たちもたしか一人千円ほどの寄付をという呼びかけが始まった。焼け残った旧邸でバザーを行い再建の資金にした。昭和22年、木造平屋のバラック校舎が完成し、木の香をかぎながらの授業が再開されたときの嬉しさは言葉に尽くせない。嬉しかったのは採釣園が昔のまま残っていたことであった。

私はここで二つの学制改革に遭遇することになった。占領軍つまりアメリカの教育制度が取り入れられ六三三制が施行されたことにより、女学校5年生のとき高等学校の2年生に編入されたことである。友人の大半は女学校5年生で卒業してしまい、高等学校三年生になったのは、一クラスのみであった。また私の二学年下には男子学生が入学して形だけの男女共学になったことである。私たちは二年間ほどまともな授業が受けられなかった為3年生になっても学業は遅れ、遅れを取り戻そうと必死だった。先生方も課外授業を献身的にして下さったお陰で、私たちのクラスから国立大学や県立大に30名近くの人が合格したのであった。女子にも大学進学の道が開かれた画期的な時期に、私は大学に進学できたのであった。

次に私が母校と繋がるのは、大学卒業後、18年間、市内の中学で教えていた私に、市立の恩師藤田典子先生から母校に戻っておいでと声をかけていただいた時からである。戻ってみると、まだ懐かしい先生方が10名ほど勤務しておられ、優しく迎えて頂いた。それから20年間、今度は社会科の教師として母校に勤める事になったのである。 新任式のとき、体育館に入って驚いた。戦後のバラックだてのままの体育館が残っていたのである。この体育館は建ってまもなく熊本大水害を体験したはずで、かなりの高さまで水が来たときいていたのでとうに壊されたと思っていたのである。しかし他の校舎は 昭和35年から42年までに鉄筋四階建ての立派な校舎と変貌していた。嬉しかったのは校舎の位置が、私が60年前に入学したときのままの形で上に背丈が伸びただけだったのである。中庭には草花ではなくベルサイユ庭園様式の植木の刈り込になっていて、小さな池と抽象的な石の彫刻があり、それなりの落ち着きをあたえていた。私が着任したのは昭和47年であるから再建築後12年たった比較的新しい校舎であった。女子高だったので、掃除のときは皆青いデニム地のエプロンをしてよく働き、その姿には清々しいものがあった。

生徒数は全校で1350名ほど。一クラス50数名が9クラス、3学年の女子高はどこかのんびりして、みんな素直で、中学の悪がきどもと暮らしていた私にはいささか物足りなさを感じたものだったが、その二年後、多くの論議の末、再び男女共学校となったのである。再びというのは、 戦後の学制改革で6年間ほど少数でも存在した男子生徒が入学しなくなり女子高に逆戻りしていたためである。男子トイレを作ったりして受け入れ対策に追われた。制服も男女ともかえることになった。男子数は1学年90名ほどで4クラスが共学、他は女子クラスとなった。昭和54年には現在の新体育館が完成、共学も本格的になった。

男子が入った事によって活気は生まれたが、校舎は年々汚くなっていった。廊下に溜まる抜け毛の多さ、ほこりなど時代の影響もあってか年を追って熱心に掃除をする人の数は減って行った。愛舎精神などはどこにいったか。学校が思い出となったときにやっと分かるものなのか。鉄筋の校舎といえども永遠のものではなく疲弊していくものであることを実感するようになった。鉄のサッシは黒く錆付き、重たく一部が外れかかってブラブラするのもあり、3・4階の踊り場には鳩が巣食い、おびただしい糞を垂れ流し汚さを倍増させていた。しかし生徒たちはくったくなく青春を謳歌して、ある時は歓声をあげ、あるときは怒り、笑いつつ三年の時を過ごし卒業し、また新しい生徒を迎え、送り、あっという間に20年の月日が過ぎ去っていった。

退職しても私と学校との縁はきれることがなかった。校舎のかた隅には卒業生の寄付を仰いで建立した「いてふ会館」があり、ある時期は同窓会会長として、又顧問として、いまだに校舎の横を通りながら月に三回ほどは学校にでかけているのである。辞めて程なくして採釣園が改築され、池の形は似ているものの水前寺公園のような美しい庭園に生まれ変わった。庭園を見学に見えるかたもあり、戦災をまぬかれた米田家の旧邸の古さと何故かマッチしてこれもまたよしかと思ったものだった。しかし学校を訪れるたびにどこか学校にピリッとした雰囲気がなくなり、これでいいのかと密に心を痛めていた。そのうち被服科を廃止して新しく服飾デザインコースが編成されると聞いて驚いた。 被服科は高校11回(昭和34年卒)に最初の卒業生をだしてから、公立初の被服専門コースとして高い評価を得てきているからだった。専門学校の生徒にも負けない力を持つともいわれ、被服科の生徒は実によく勉強していることを知っていたから、残念にも思われた。しかし商業主義のながれのなか既製服がまかり通り、縫製よりデザインの時代とも言われれば、それを芸術コースとして組み入れることもやむを得ない流れかなと納得した。教育は未来からみた現在でもなければならないから、いまでは大変なプラスであったと思われる。音楽・書道・絵画・デザインの面での活躍は、目を見張るものがある。しかし校舎は生徒たちの賑やかさとは裏腹に日々痛みが激しく、中庭もかっての庭園の姿は無く、なんとなくうら寂しい思いをしていたが、校舎の全改築の話が進み、校舎の解体が始まり、一部新校舎も完成など急激に一大変革期を迎える事になった。解体された校舎の跡にたち、戦中に焼け落ちた校舎の跡地に立ったことを思い感無量であった。新しく出来た校舎を見学して、至れり尽くせりの設備に歓声をあげたが、ここに学ぶ生徒さんらはその幸運を、どう感じているだろうか。新しいものは心地よく、美しいものは皆大好きである。しかし形あるものはいつか古びて行く。私の前から消えていった三つの校舎。校舎は消えてもそこで過ごした青春の日々の思い出は消える事は無い。この校舎で過ごす生徒さん方が、不断の努力によって校舎を愛して大事に使っていただき、二度と戻らぬ青春の日々を力一杯燃焼させ、終生忘れ得ぬ思い出を残していただきたいと願うものである。思い出のなかから校舎への追憶がけされることのないように。

母校創立95周年記念熊本友好姉妹都市訪問

[寄稿] admin @2006/03/27 16:55

Produced by : 坂本歌子(高2)

有志による桂林旅行

 2005年10月25日(火)〜 2005年10月29日(土)

 いてふ会では95周年に当たって大同窓会・名簿発行以外にも何か思い出に残る事をしたいと考え、桂林旅行を企画しました。桂林は熊本市の姉妹都市であり、その友好を記念して毎年母校からも訪問団がでかけており、いてふ会の役員にもその経験者がいることから、我ら年配者も行ってみようではないかと声が上がり、計画を旅行会社依頼しました。本来ならば会報によって周知を図るべきでありますが、会報は3年ごとの発行で、郵送費が一回で150万かかることから、役員常設委員会やコーラス・フラダンス等の会員を中心に口コミで100名くらいは集めてとスタートしました。その矢先、抗日の気配が中国本土に始まり、トーンダウンせざるを得ない状況になりました。 旅行などはチャンスを逃すといけなくなるから、思い立ったからには自己責任でぜひ行きたいと願う有志の方々で実施する事になりました。参加者24名(高女26回・高校2回3名〜高校13回生)なかでも高校11回は11名の参加(夫婦1組)でした。

桂林はその名のとおり木犀の匂う町で、まさしく風光明媚の地でした。50キロの漓江と両岸山々は美しい絵巻のようでまさに山水画の世界でした。観光はもとより、私たちの旅のメインは、桂林市を表敬訪問し友好を深めることにありました。二日目の夕方、宿舎の桂林賓館の貴賓室において、桂林市を代表して、林觀華(桂林市人民代表大会常務委員副主任)女史をはじめ5名の担当者が私たちをお迎えくださり、1時間楽しく有意義なときを過ごすことができた。林女史は恰幅の良いおおらかな感じの方で、双方の都市の問題を和やかに楽しく交流することが出来ました。桂林は8月から雨が降らず街も誇りっぽく、何より川の水が少なくなっているということでした。漓江下りは3日目で、話のとおり観光船の船底が川底の石と摩擦する音が聞こえたが、移ろい行く両岸の山々の美しさ、それが川面に映えてその美しさに見入るうちに全てを忘れさせてくれました。畳彩山、芦笛岩、像鼻山、七星公園、民族村など見るべきものは多かったが、今度の旅で、何よりも私たちの心を楽しませたのは、いてふ会員としての心の繋がりでした。なかには一面識もない方もありましたが、会うなり昔からの知り合いであったように何の気取りも無く穏やかに風景を楽しみ食を楽しめました。国立博物館では少数民族の援助基金として紫檀の飾り棚に陶磁器や宝石の原石など宝物付で購入を乞われところ、100万を超す高価にも拘らず3名の方が購入されました。中国友好の為に立派に貢献できたと一同喜んだ事でした。また同じ宿に連泊できたことも疲れを半減させ、皆で並んでやった足つぼマッサージも、われら熟年の旅を元気付けるものでした。一同元気で帰途に着いたが、また行きたいね、また会いましょうと、名残を惜しみつつ別れを告げたのでした。

文責 坂本歌子(高2)

新生必由館高校づくり

[寄稿] admin @2005/02/21 16:40

Produced by : 校長 加藤 修

 必由館高校の校長として御縁をいただいてやがて二年になりますが、この間多くの皆様の心温まる御支援と御協力のもとで充実した日々を過しております。中でも、生徒の活躍を一途に願い、一所懸命に支えていただいております「いてふ会」の会員の皆様には衷心よりお礼を申し上げます。特に、平成十五年夏の野球部甲子園出場の際には、物心両面で一方ならぬ御尽力を賜り、言葉では言い尽くせない位、感謝の気持ちで一杯であります。

 御案内のように、本校は、九十周年の大きな節目に校名の変更と同時に学科改編を行ってコース制を導入し、普通化の更なる活性化とコースの特色を生かした教育の充実を目標に「新生必由館高校づくり」がスタートしました。以来四年、全ての教育活動が目標達成に収斂するよう、生徒・保護者・職員が三者一体となってこれまで歩んできました。おかげで生徒の意識や動きに変化が見え、新しい自分を発見して意欲的に行動する生徒が増えてきていることを、校長としても嬉しく、頼もしく思っています。

 私は、機会あるごとに生徒に自分の力と可能性を信じ、最後まであきらめずにひたむきに努力を積み重ねること、学校と先生方の指導を信頼して素直な心でついていくことが、目標達成の鍵であると話しています。また、「やればできる、伸ばせば伸びる」の思いで何事にも全力投球することが、必由館生としての自覚と誇りを植え付けることになると信じて生徒を激励しています。

 生徒は、その期待に応えて自分の誇れるものに果敢に挑戦し、持てる力と特性を十分に発揮して見事な成果をあげています。それはスポーツ・文化活動の上位入賞からコースの特色ある取組及び国公立大学の合格まで幅広い分野に亘っています。限られた三年間の中で自己実現を図るために確かな目標を見定めてトータルな学習活動や部活動を展開したことが、実を結んだと思っています。

 このように、生徒は、「新生必由館高校」を一歩一歩着実に前進させるべく頑張っております。先生方も「後生畏るべし」という言葉を固く信じて、「生徒のために」力の限りを尽くしていただいておりますので、今後も会員の皆様の力強い御指導・御鞭撻をお願い致します。

校舎増改築第一期工事

[寄稿] admin @2005/02/21 16:40

Produced by : 教頭 渡部康夫

 平成15年11月19日に起工式を行い、平成16年度末に第一期工事が竣工します。屋上にプールを併設した威風堂々の5階(一部6階)建てのすばらしい校舎です。旧校舎が無くなるのは忍びないかもしれませんが、新生必由館の姿をぜひご覧ください。

必由館一期生卒業

[寄稿] admin @2005/02/21 16:39

Produced by : 教頭 渡部康夫

 いてふ会の皆様いかがお過ごしでしょうか。昨年度の本校野球部甲子園初出場に伴うご支援・ご協力誠に有り難うございました。いてふ会の組織力にただただ感謝あるのみです。本校はその原動力を得て、今春の必由館一期生が学業に、芸術に、スポーツにすばらしい実績を残し卒業しました。学業面においては、すべてのコースからその特性を活かし、熊大、熊本県立大、筑波大、東京外大、東京芸大、埼玉大、福岡教育大、佐賀大、大分大、琉球大、愛知県立芸大、沖縄県立芸大、高知女子大等の国公立大学に合格者を出しました。すばらしい頑張りだと思います。また、各コースもそれぞれ特徴ある活動をしています。国際コースは、交換留学生制度を活用し、中国・ドイツ・アメリカに留学生が派遣されていますし、本校にも留学生が来ています。常に生の英語と接する機会があり、阿蘇国内語学研修、オーストラリア海外研修等も実施し世界的な視野で活躍できる生徒を育成しています。芸術コースは音楽系、美術系、書道系共にそれぞれ専門性を活かし、音楽系は公開テスト・演奏会を学期毎に実施し、美術系・書道系は共同で卒業制作展を実施しています。また、各種大会・展覧会に参加し数々の大賞を獲得しています。服飾デザインコースは、最新のアパレルCG・CADを駆使し配色やファッションデザインなどを学んでいますし、全国ファッション甲子園やきもの装い世界大会に出場し準優勝するなど活躍しています。スポーツでは、野球・バレーボール・陸上・ハンドボールなど県下大会で常に上位入賞するなど頑張っています。今学校全体に活気が溢れ一人一人が少しずつ自分の役割を意識し始めているところです。益々楽しみな必由館高校です。

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